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カントの見解を明らかにする

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カントは、道徳は理性の機能であり、私たちの特性、傾向、感情は正しいことを決定するために無関係であると述べている。

しかし、この彼の考えは議論を呼ぶ。

 

カントの思想

 

私たちの多くは、行動の動機として、人の共感を高く評価する。

カントは、義務感から行われる場合にのみ道徳的価値があると言う。

もし、自分の感情に突き動かされたのであれば、その行動は許容されるが、たまたま自分の感情がそのように行動させたのだから道徳的価値を欠くということになる。

つまり、もしその感情がなかったら、別の行動をとっていたかもしれないし、それが正しいと考えたかもしれないのだ。

 

なぜ感情と道徳的価値は相反し得ないのか

何が道徳的に正しいかは、私たちの個人的な好み、特徴、傾向には依存できません。

義務感、つまり法律を尊重して行動する必要性は、常に同じです。

感情に突き動かされてとる行動は、結果的に人助けになろうと道徳的に正しいとは言えない。

感情による行動はその人の気分や好みによる為、不確かなものになるとカントは考えている。

 

例え

カントの思想の観点から見ると、人助けをしたくないのにも関わらず人助けをする人は道徳的価値がある。

なぜなら、彼女は感情的には冷淡に人助けをするからだ。道徳的義務がある行動を意図的にとっているのだ。

 

一方、人助けが好きで人助けをする人には道徳的価値はない。

なぜなら、彼女が人助けをするのは彼女の感情が起因だからだ。彼女は人助けが生きがい、つまり好きでありこの感情が結果的に人助けをするという行動に繋がっている。

 

仮に前者の人が人助けすることを好きじゃなくなったら途端に人助けをしなくなるのだ。

これは継続性が見込まれず信頼に欠ける。

 

なぜ議論を呼ぶのか?

 

では、なぜこのカントの思想が議論を呼ぶのだろうか。

 

理由

それは、我々が生きている中で 

人助けをすることが好きな人に道徳心があると考えているからだろう。

 

好印象や株を上げることを目的として寄付をする人がいるとする。

その人は、寄付をすればSNSに投稿し賞賛を得ようとする。

 

もう一方の人は、寄付して人助けをする方が好きなので寄付をする。尚、SNSに載せたり人に言ったりすることはあまりない。

 

この両者のうちどちらに道徳心があると感じるか?

私はカントの思想をする前、後者にあると感じたのだ。

 

前者は、賞賛目的の寄付など、自分のために過ぎない。

選挙で票が欲しいから市民に受けの良いことを言うのと同じだ。

 

 

一方、後者の人は人助けが好きなのだから道徳心があると感じた。

 

しかし、カントによるとこれは継続性がなく信頼性に欠けるのだ。

言われてみればカントの言う通りなのだ。

人助けが好きじゃなくなったら寄付をしなくなる。

 

 

まとめ

 

カントによると

一見人助けをすることが好きな人の方が道徳的価値があるように見えるが、

実は感情に起因しない人助けの方が道徳的価値があるのだ。

 

 

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